「生活費に使っちゃった!」格之進創業者が語る起業前。
社長になるまでの遠回り。新聞配達、受験の挫折、歌舞伎町で知った人の弱さ|お肉と経営 vol.04
- カテゴリ
-
この記事は、1999年創業・熟成肉のパイオニア「格之進」代表の肉おじさんと、ビデオポッドキャストプロデューサーのなにゆえ山本洋輔がお届けする『お肉と経営』のテキスト版です。
食の教養と経営のリアルに触れたい、会食の多いビジネスパーソン向けにお話ししています。
今回のテーマは、社長になることを目指した肉おじさんの少年時代と、受験の挫折です。家畜商の家の変化、新聞配達で貯めたお金、東京での浪人生活。株式会社門崎 代表 千葉祐士(肉おじさん)が、大学に入るまでの道のりを語ります。
茶の間で身についた、商売と人の関係
牛の商談が行われる家で、肉おじさんは子どもの頃からお客さんを迎えていました。
肉おじさん:
もともと私の家で、そういう馬喰(ばくろう)さんたちとか、餌屋さんとか、いろんな牛に絡む人たちがうちの茶の間で商談する場所だったので。
お客さんが来ると、そこに私の母がいなければ、私がお茶を出したりとか、お茶菓子を出したりとかして、お客様をもてなしてきたんですよね。
いまだにというか、昔もですね、本当に自分の家なんだけれども、お客さん来ると正座して「いらっしゃいませ」ってちゃんと頭を下げて、お茶を出していたもんでしたよ。
山本:
一番古い記憶で言うと、何歳ぐらいでそういうことをやってらっしゃったんですか?
肉おじさん:
小学校ではやってましたよね、すでに。
山本:
結構じゃあ、ちっちゃい頃から。
肉おじさん:
小学校3、4年生からはお茶を入れますよね。
まあ4年生ですね。
山本:
へぇー。
10歳ぐらいですね。
肉おじさん:
もう10歳にはお茶を出しました。
でお茶請けも出したりとか。
でもうちょっと話をすると、茶の間が社会との接点だったんですよね、私の中で。
山本:
はい、してください。
はい。
肉おじさん:
そこで父親が商売の話とか、牛の売り買いの話とか、相場の話とかいろいろしてるんですよ。
でお昼になるとご飯を食べさせて、夕方に来て遅くなったりすると、「ご飯食べれ」って晩御飯をご馳走して。
お酒飲める人は「酒飲め酒飲め」なんて言って。
昔は飲酒運転というのがそれほど厳しくなかったので、「控えましょう」ぐらいの話だったんですよ、大昔は。
だからよく「いや車で来てるのに」って言われても、お酒出したりとかしてましたよね。
山本:
うーん、まあ、当時そうですよね。
肉おじさん:
本当に、もう40年、50年前の話ですよ。
山本:
そっか。
その商談の場そのまま子どもがいる。
肉おじさん:
っていうふうな話で。
家がとにかく商談の場であり、接待の場であったんですよ。
だからそういうところで私も育ってきたので、家で他人が商売している光景って当たり前なんですよ。
山本:
って感じだったんですか?
肉おじさん:
まあ家族だからね。
だからそういったところで、「あそこの農家はどうだ」とか、「ここの牛はどうだ」とか、「あそこでこんだけ儲かったらしい」とか、「あそこではこんなことをやってるらしい」みたいな話をしながら、情報交換なわけですよ。
情報交換と相談ですよね。
で、そこに私は本当茶の間なので、テレビ見てたりするわけですよ。
そうするとテレビを見ながら横で商売の話をしてるわけですよ。
そういうふうなことをしていたんですよね。
だから、お客さんがいるとか、そんなことは当たり前だったし、お昼になったり夜になったりすると、お客さんがその時間いれば「ああ食べてけ、食べてけ」って言って、当たり前にやってた光景だったんですよ。
目利きの力があっても、取引の仕組みは変わる
家業の仕事が減っていく経緯を、肉おじさんは自分の家の出来事として振り返ります。頭数や当時の業界の様子は、本人の記憶に基づくお話です。
肉おじさん:
そんなふうなところで生まれ育っていて。
ただ、そのうちの馬喰って家業も、農協さんがどんどん発展していく中で、牛の売り買いはお米を作っている、だいたいみなさん農協の組合員になっているので、農協の組合員さん向けに家畜事業も始まっていったんですよ、農協さんが。
それで馬喰の仕事がどんどんなくなっていったんですよ。
っていうふうなところが大きく転機になって。
だから今、いろんなところのブランド牛をやってる、例えば前沢牛とか、松阪牛とか、飛騨牛でもそうですけど、大きな牧場っていうのは元をたどると「家畜商」だったっていうところが多いです。
それはなぜかというと、農協さんがどんどん台頭してきて――農協さんが悪いとかそういう話じゃなくて、もう時代がどんどん変わってきていて――農協組合員に家畜事業、まあ農協が買うとこういうふうにいいよっていう話があって。
それで家畜商を商売しないで、「農協でやった方が効率がいいでしょう」っていう話になって、家畜商の仕事がどんどんなくなっていった。
山本:
ああ、そうなんだ。
肉おじさん:
なくなっていったから、じゃあ自分で目利きができるから、「牛を買って自分で育てよう」みたいなところが始まりなんですよ。
そう、だからうちもそうで。
まあうちの父も後半、20頭か30頭ぐらいですかね、自分で(飼っていました)。
ただ、やっぱ商売が中心なので、育てることっていうものはメインではないわけです。
だから20頭、30頭ぐらいですよね、自分の保有する牛っていうものは。
でもそれもやっぱり農家さんに頼んで、農家さんもわらを食べてもらって、堆肥は肥やしになって畑とか田んぼで使えるから、「預託」って言われてるんですけども、それで預けて育ててもらうっていうふうなものをやってたんですよ、昔は。
だから自分のところで、今からそうですね、50年前で、私の知ってる限りですよ、牛を100頭飼ってるっていうのはまずいなかったんですよ。
東北でもたぶん前沢牛、小形畜産ってあるんですけども、あそこはたぶん東北では一番最初に100頭超えたんじゃないかって言われているんですが。
昭和50年前後には100頭を超えているので、1980年代初頭、今から45年前ぐらいですか。
で、100頭飼ってるだけでもう東北で一番と言われるぐらい、昔は頭数いなかった。
山本:
今じゃね、一社あたり1000頭ってざらにいるので。
あ、そうか10倍ぐらいになってんですね。
肉おじさん:
そうです。
もう多いと1万頭とか2万頭とか、まあ5000頭とかっていうのは平気でいるので。
大手になってくると、それぐらいいますよね。
山本:
まあでも元々は人が全部やらなきゃいけなかったですもんね。
そうするとやっぱり、数もね、限度が。
肉おじさん:
そうです。
だから集約はしていったんですよ、簡単に言うと。
そういった中で、うちの父が飼ってたものを、うちの兄が引き継いで事業が始まったというところがあるんですね。
で、兄が家業を継いで、兄もすごく苦労してですね、引き受けをして。
本当に大きな借金からのスタートで、まあそこのところは割愛しますけれども、それで兄が100頭に牛を増やすところまで頑張ったんですよ。
今から25年前ぐらいかな、創業のあたりです。
その当時やっと100頭になったっていうところで。
100頭もその当時多い方でしたけども、それでじゃあ私はその牛をね、なんとかブランドにしようと思って家業に戻ったんですよ。
で、私自身はその家業に戻るまでの間の話をすると、家畜商をやっている中で、もう農家さんがどんどん台頭してきて、私の高校生あたりの頃って、うちの父親はもう本当に家畜商の仕事はほぼなくなったんですよ。
なくはないけども、昔のような取引がなくなった。
で、まあ自分でちょっと飼うようにはなったけれども、飼うのが別に得意なわけではないので。
あくまでも牛の選別とか、牛の性質を見抜くというのが得意な人だったので。
一応そんな感じでですね、どんどん父親が収入が減ってったんですよね。
私も正直そんな裕福な状態では全く育っていないので。
まあ中学生、小学生ぐらいまでですね。
周りを見るとね、みんな「自分であのどっかの会社員」という人がほぼいなかったので。
もうブロイラーを経営するとか、あとは今で言うNTTの孫請け、ひ孫請けぐらいの仕事をしていますとか、そういう人たちばっかりで。
公務員もいなかったし、会社勤めっていうのはいなかったんですよ、周りに。
山本:
なあ。
もうみんな自営業とか会社をやってるとかっていう。
肉おじさん:
そうそう、だから俺もなんか商売やるんだっていうふうに思っていて。
父親が結局まあ衰退だったのでその当時、やっぱり収入もないし、私もそんな裕福に育っていないから、うちの仕事だけはやるまいと思ってたんですよ。
山本:
自営業の子にある感じですね。
最初一回こう離れるというか。
肉おじさん:
で、もう牛だって儲かんないし。
その時、私の母の兄が東京で事業をやっていて、やっぱ東京にこう連れてってもらったりとか、東京の風景を見たときに、「いや俺も東京だ」みたいな。
「東京に行って俺もちょっと社長になる」みたいな話で。
で、社長となるためにはどうしたらいいんだ?
みたいな話を聞いてたら、どうも大学行った方がいいらしいと。
大学に行くと、いろいろ勉強できるらしいと。
経営っていうものもなんかあるらしいと。
それを学ぶと社長になれるらしい、みたいな。
なんの情報からそうなったのかわかんないけども、もちろん大学に行って、東京の大学に行って経済の勉強を学んで俺は社長になるんだみたいにずっと思ってたんですよ。
新聞配達で貯めたお金と、家計の現実
家業の変化は、少年が欲しいものを買おうとしたとき、暮らしの問題として見えてきます。
肉おじさん:
だから私ね、本当いまだに覚えてますけど、小学校の頃にヤクルト配達して小遣い稼いでました。
中学校も、中学1年から中学3年の夏ぐらいまで新聞配達しました。
山本:
ああ、そうなんですね。
肉おじさん:
うちがどういう水準だったかという話をすると、俺は中学校の頃になんで新聞配達したかというと、オーディオコンポというのがその当時流行っていて。
金額がやっぱり15万から23万ぐらいしたんですよ。
それって初任給よりも高いんですよ、あの当時12万円ぐらいだったから。
山本:
当時ね、はい。
肉おじさん:
それをどうしても欲しくて、新聞配達を始めたんですよ。
でも新聞配達やっても、田舎って団地と違うから。
団地に行ったら、例えば20件分とか1分で終わるでしょ。
山本:
そうか。
僕も岐阜出身なんでわかりますけど、今風景が浮かびましたけど。
肉おじさん:
隣と隣が離れてるから。
自転車で100件ぐらいかな、100件ぐらいのやつを自転車で行って、ちょっと山登って一軒渡して、で集落に行って3件渡してみたいなことをやって100件だから。
山本:
はいはいはいはい。
大変ですよ、それは。
肉おじさん:
大変だと思いませんか?
山本:
東京のイメージと全然違います。
肉おじさん:
だって東京で配るって言ったら、たぶん10分ぐらいで終わると思うよ。
山本:
そうっすね。
結構バーっとね。
肉おじさん:
俺、1時間半かかってたもん、だって。
ほぼ移動だから。
山本:
ほぼ移動みたいなね。
肉おじさん:
2時間かな。
朝5時に起きて駅に行って、そこで新聞届いているので。
必要な分、読売だ、日経だ、毎日だ、朝日だっていうのが来てて、そっから自分のコースの分だけ取って、それを配達する順番に組み立てをして。
「あそこは何新聞」って覚えてて、それを束にして100件ぐらいを配るんですよ。
それ私、3地域あって。
基本的には同じ地域を3日配達して1日休みなんですよ。
「3日配達で1日休み」だから、3日配達した人が1日休むので、休んだ時の穴埋めで、A・B・Cっていう3つを渡り歩くんですよ、私はこう。
山本:
はいはいはい、ローテーションみたいになってるんですね。
肉おじさん:
ローテーションで、そういうようなことを……そうだ思い出した、すげー思い出した。
よく覚えてたなぁと思って。
エリアが毎日違うから、新聞を折り込む順番が違うんですよ。
それをもう全部覚えて、朝5時に行って、7時に終わって家に帰って、ご飯食べて家を出て学校に行くみたいな。
山本:
はい。
いやー、すごいですね。
10代。
肉おじさん:
そう、中学校の時やってましたよ。
そうすると2時間約仕事して、月の給料が8000円から7500円だったんですよ。
山本:
結構かかりますね。
肉おじさん:
だから、中学校に入ってすぐに新聞配達を始めて、そうすると8000円が1年で10万になるわけですよ。
で2年目で20万になるわけですよ。
で、3年生の時に夏までやったから、まあ約でも2年ですよ。
そうすると、まあ20万の予算があって。
あとお年玉をもらうので。
商売やってるからおじさんたちが可愛がって、3000円だ5000円だってくれるんですよ。
それを全部母親に渡して、「23万、4万ぐらいあるな」と思って、「お母さんこれこれが欲しい」っつってコンポの写真、チラシを見せたんですよ。
そしたらニコッとされて、「生活費で使っちゃった」って言われて。
山本:
うわー……。
肉おじさん:
あれーと思って。
俺なんか父親も社長だし、周りも社長だから。
で、なんかテレビも洗濯機も冷蔵庫もあるから、白物3点ちゃんとある、うちは中流だとかって思ってたんだけど。
「これ絶対中流じゃない」と思って。
山本:
きついっすね、2年。
肉おじさん:
それで俺は「中流だ」と思ってたの、「一億総中流」と呼ばれている時代だったから。
おじさんも東京でなんか社長やってるしと思ってたんだけど、そこで気づいたんですよ。
「これ絶対中流じゃない、上中下でいったら絶対下だ」みたいな。
それだけ馬喰の仕事がなくなってったんですよね。
社長になるための勉強が、思いどおりに進まない
経済を学ぼうとしても、勉強の方法や進学の情報が手に入らない。受験の失敗を重ねながら、東京へ出るまでの話です。
肉おじさん:
まあなので、やっぱり俺自分で社長やろうと思って、牛はやるまいと。
勉強しようと思って勉強したんですよ。
ところが勉強しても塾とかないから。
でちょっとね、俺もあんまり頭は良くないっていうか、興味のないものを覚えられなくて。
成績は上中下で言ったら上には入ってましたけど、地域の。
「まあ、そういう中学校じゃダメだ、もう絶対俺大学に行く、大学行って絶対社長になってやる」とかと思って。
何をやりたいかわからない、世の中わからないんだから。
どんな仕事があるかがわからないですよ、地方にいると。
山本:
そうですよね。
いや、これは僕の時代でもやっぱり、地方って情報、本当将来のことが描けないというか、テレビだと別世界だしみたいなのは本当ありますよね。
肉おじさん:
そうそう。
ところが今はもう情報がこれだけ共有されてきてるから、地方も首都圏もあんまり変わらなくなってきた。
大衆化してきたから、SNSのおかげで。
情報弱者というものが本当に昔に比べれば減ったよね。
山本:
いや、そう思いますね。
でも本当、肉おじさんの時代は多分全く情報がなかったんだろうなというのはイメージできますね。
肉おじさん:
なかったです。
近所のおじさんの話しかわからなかった。
テレビの話はもうほど遠い、別世界の話。
まあそんな感じで、「俺は東京に行くんだ」みたいな。
東京に行ってでも勉強しようと思って、本気で勉強しようと思ったんですよ。
だから社長なりたくて勉強しなきゃいけない、でも塾はない。
で、そうすると東京のおじさんが、誰かにこう聞いたら、どうも「Z会」っていう会があるらしいと。
山本:
おお。
東京のおじさんは貴重な情報源ですよね。
肉おじさん:
そうそう、Z会っていうものがあって、それの通信制があるから、通信制で勉強するといいっていうふうに言われて。
Z会の通信制のやつ取ったんですよ。
そしたらですね、質問の意味も理解できなかったり。
ダメだこれと思って、答え見ようと思って答え見たわけ。
答えの解説が理解できないんですよ。
山本:
そうですよね。
もう今までそういうやり方やってないわけですからね。
肉おじさん:
そうで、学校の先生に聞いたら、「あ、それはね、今勉強するやつじゃないから覚えなくていい」って言われるわけですよ。
「どうすりゃいいんだよ」みたいな話で。
山本:
いや、そうっすね。
先生ももしかしたらそういう環境で育ってるから、やり方わかんないみたいなところあるかもしれないですね。
肉おじさん:
うん。
やり方わからないというよりは田舎なんですよ、私の年代の。
今違うと思いますよ。
学校の先生に教えてって言ったら、「今それを教える(のは)もっと先に勉強するやつだから、それは今覚えなくていいから」って言われて。
「本当かよ」とかと思いながら、どうすりゃいいんだっていうふうに。
でも塾もないし。
まあ中学校の問題になってくると、さすがに母親は結構その……まあ、政治家が生まれたりとかするような家系だったので、読み書きができるんですけど、やっぱり俺が理解できるには説明できなかったよね。
でもうお手上げだみたいな。
学校の勉強だって、それはそうよ。
なんかこれ勉強するといいって言われて、問題の意味わかんないし、解説書を読んでも解説言ってることは理解できないし、学校の先生に聞いたら「いや、それまだ早いからまだ勉強しなくていい」って言われるし、みたいな。
そんな状況だったんですよ。
まあ一応、中学校でもそこそこ成績が良かったんで、進学校行こうと思って、岩手県の一関に「一関一高(いちのせきいちこう)」というところがあって、その当時県内では二番目に学力高かった方。
盛岡一高の次に一関一高と昔は言われてました、今たぶんもうちょっと違うと思いますけど。
そういうようなところに入りたいと思って、そこに行けば大学に行けると思って受けたんですよ。
そしたら、うちの中学校から同級生が60〜70人弱いるんですけど、8人受けて、一割ちょっと受けて、私だけ落ちたんですよ。
山本:
逆かと思ったら。
肉おじさん:
「ギリギリ受かると思う」というふうに言われて頑張ったんですよ。
でも落ちちゃった。
で、隣にある、今は「一関修紅(いちのせきしゅうこう)」っていうところなんですけども、その当時……まあ、それこそ麻生さんですよね、九州の方の麻生の教育団体のところがやってる高校に私は入って。
で、どんな高校かというと、私のクラスって全部で7クラスあったんですよ。
で3年生が4クラスしかなくて。
「なんで1年生7クラスあるのに、3年生4クラスしかないんだろうなぁ」と思って。
答えがわかったんですよ。
高校に入って、夏休みすぎたら、私の同級生のうちで30人ぐらいもう退学してるんですよ。
山本:
あ、そういうこと。
減ってくってことですか?
肉おじさん:
中退してるんですよ。
それで「えー」みたいな、「みんなどうしたの?」
って。
夏休みの間にやっぱ悪いことをして警察に捕まったとか、あとはもう仕事し始めたとか。
だからそういうのが本当にいて、卒業するまででも2クラス分ぐらい減っていましたよね。
「あれ?
なんか机少ない」とかと思って。
そういうような高校で、だからもう2クラス分以上退学したと思いますよ。
そういう高校に入って、まあ当然学力は一番ですよね、当然。
で生徒会長もやりました。
部活もちゃんと部長もやりました。
で無遅刻無欠席です。
これ以上内申点いいことないじゃないですか。
よし、俺も一番になって、生徒会長もやったし、生活態度も悪くないし、もう100点満点だと。
これで俺、推薦で入ると思って。
その当時、偏差値が39ぐらいの、今もう名前変わってますけど「秋田経法大学(秋田経済法科大学)」っていう、経済・法律の勉強できると思って、ここだったら受かると思って。
偏差値が40ないんですよ。
そこに推薦で絶対受かると思って受けたんですよ。
そしたらなんと、落ちたんですよ。
もうその経験があって、もう俺はやっぱり頭が悪いっていうふうにも……ねえ、高校受験は失敗するし、大学受験もこんな完璧な状態で受けたのに落ちるし、もう俺たぶん本当に頭悪いんだと思うとかって思いながらも、でも諦めなかったんですよ。
もう浪人を決意しようと思って。
で、その当時東京のおじさんが可愛がってもらってたから、「東京に来い」と。
「おじさんが面倒見てやる」と。
「東京で予備校でしっかり勉強しろ、もう一年間頑張ればいいんだ、おじさん応援するから」って言われて、行ったんですよ東京に。
学費を稼ぐ仕事が、勉強の時間を奪っていく
予備校に通う費用を自分で稼ぐため、歌舞伎町の居酒屋で働き始めます。
肉おじさん:
おじさんの家に住んで、自分で探したんですよ、予備校とか。
で「ここがいい」と思って、おじさんに言って「これちょっと100万かかるから、120万かかるからおじさんこれちょっと出してほしい」って言ったら、「自分で稼げ」って言われて。
「えっ?」
みたいな。
「自分で稼ぐの?
ええ、これ前払いとか書いてるけど……」とかって思いながら、毎月払いますからっつって。
でバイトを探して。
バイトもその当時一番時給高かったところは1000円の時給があったんですよ。
その当時の時給ってね、500円だったんですよ。
「倍もらえる!」
と思って。
それが今でももう鮮明に覚えてますけど、歌舞伎町にある「さくら通り」ってあるんですよ。
そこの入って最初の角の左側の2階に、居酒屋「村さ来(むらさき)」っていうブランドがあるところで俺、そこでバイトしたんですよ。
夕方4時から深夜の12時まで。
一日8時間、8000円だもん。
山本:
そうですね、一日。
思い出しますね。
肉おじさん:
8000円って、なんか思い出さない?
一ヶ月新聞配達でやった金額が8000円なのよ。
ということは、一ヶ月毎日2時間あんだけ働いたやつが一日で稼げると思ったわけ。
「すごい!」
とかって思って。
「いや、東京ってすげえな」とか。
歌舞伎町のそのところでなんで時給高いんだろう、ここだけと思ってたんだけど、入ってわかりました。
親方が元相撲取りしてて、代表でめっちゃ厳しい人なんですよ。
それでだいたい入って、まあ一週間持たないんですよ、みんな。
山本:
はい。
そういうとこ多いですね。
入るの高校もそうだし。
肉おじさん:
そこで俺入ったら、まあまあ結構俺仕事するから、なんかもう怒られながらも認めてもらって。
そこの大将に「千葉ちゃん千葉ちゃん」というふうに言われるようになって、かわいがってもらって。
で、私そこでずっといたんですよ。
そうそう、もう一日で(昔の一か月分)稼げるわけだから、それやりましたよ毎日。
そうすると8000円で、まあ週に一回ぐらい休んだかな、なので8000円の25日なので、約20万ぐらい。
20万稼いだんですよ。
で、学費がその当時、月6万かそれぐらいだったので、それで半年やれば一年分稼げると思って、まず半年間大変だけど頑張ってやろうと思ってやってたんですよ。
折れないと思っていた自分の弱さを知る
働くことと勉強を両立しようとする日々の中で、本人も予想していなかった変化が起きます。
肉おじさん:
そんなことやりながら、もうね、ちょっとね、やっぱり精神的にも参った時があって。
いや、なぜかというと予備校に行くじゃないですか。
で4時から12時まで仕事してると、眠いわけですよ。
で家に着くのは1時じゃないですか。
で、1時から2時までまあちょっとだけ勉強するわけですよ。
で朝8時半ぐらいから勉強が始まるわけですよ。
そうすると眠いわけですよ。
寝るわけですよ。
で、また夕方から仕事が始まるわけですよ。
そうすると、なんか学校の授業で寝ちゃうし、宿題はなかなかできないし、成績はなかなか上がらないし、その中で働かなきゃいけなくて……っていう循環なんですよ。
山本:
きついですね、それは確かにね。
肉おじさん:
その中でちょっと、精神的にもう参ってたんでしょうね。
あの、手相占いに行ったんですよ。
新宿のなんかよくあるじゃないですか、ちょっとこの紙にランプ照らして「手相で見ます」みたいな。
山本:
あります、あります。
めっちゃありますよね。
肉おじさん:
で、そこで手相を見てもらったんですよ。
なけなしの千円で。
2000円って言われたけど、「これ千円しか払えないけど見てもらっていいですか」って。
山本:
ああ、そうなんだ。
よく覚えてますね。
肉おじさん:
そしたら、「あなたにはちょっと良くないものがついてる」と言われて。
「あなたは素晴らしい能力があるのに良くないものがついてる。
あなたにはお姉さんがいますね」みたいな、「お姉さんで亡くなった水子の霊がついてます」とかって言われて。
「水子の霊ってなんだろうな」と思ったら、あ、そういえば俺、俺の上に姉がいて、姉は生まれてすぐに亡くなったっていう話を聞いてた。
それ確かにあるんですよ。
生まれて2、3ヶ月もせずにもう、生まれて多分数時間でなくなってしまって。
ちゃんとお墓まで作っていてですね。
「あ、そういえば俺のすぐ上に姉がいて、その姉のこと言ってんだ」と思って、「亡くなっちゃった姉ちゃんのことなんだ、そうなんだ、どうすればいいんですか?」
っていう風に言って。
そこからなんかね、通ったんですよ、その人の祭壇みたいなところに。
その状況を、ちょっと私がそのお世話になっているおじさんの家に寝泊まりしてたから、その話をおばさんに報告したんですよ、2回目か何回目かに。
そしたら「そんなのやめなさい」っていうふうに言われて。
「顔色がおかしいと思ってたらそれだったのね」みたいに言われて。
「そんなのね、あることないこと言ってね、何か重なることを言ってる人っていうのはそういうふうに重なるもんだから、こんなの行くんじゃない」とかって言われて、「はっ」て目覚めて。
俺弱ってんだと思って。
俺、今までそんなメンタルが弱まるなんてありえないし、どんなことに関してもチャレンジしてきたし、全然俺そんな弱るなんて、精神が弱るなんてありえないって思って。
弱ってる人の話を聞くと「なんだこいつほんと根性ねえな」ってしか思ってなかったんですよ、本当に。
山本:
中高ね、受験失敗しても立ち上がってきたわけですからね。
肉おじさん:
そうそうそうそう。
まあもう悔しかったけど、しょうがないよね、バカなんだからってもう覚えられないんだから、いう状況だったんですよ。
で、そのおばさんのこと俺大好きだし、一番信用してた人だから、「そうなんだ」と思って、あーと思って、これはダメだと思って、そこから一切もう行かなくなって。
人間ってこんなに弱くなるもんだっていうふうに、その時学びました。
うつだったのかなぁ、わかんないけどちょっと、こんなに自分の信念が揺らぐというか、他人に依存するんだっていうふうに初めて気づきました。
その時に、人間って弱いんだって。
山本:
ああ、それはいい話ですね。
肉おじさん:
あ、こういう、こんだけ精神って弱いんだ、だから何も満たされてない状態が続くとこんな風に病んだりするんだっていうようなことが、私はもう身をもって体験しました。
まあなんとか頑張って塾やったんだけど、結局その当時私が行きたかったところっていうのは、武蔵大学、あの江古田の近くにある武蔵大学。
あとは桜美林(おうびりん)大学ってあったんですよ。
あと獨協(どっきょう)大学。
ここに行きたかったんです。
理由はなぜかというと、経済の勉強できる、あとは規模が小さいゼミが活性しているというところで、ゼミに入ってしっかり勉強しようと思って受けたんですけど。
一応4つぐらい受けたんですよ。
で、あとは「まあ受かってもいかないよ」と思って東北学院大学っていうところを受けた。
そしたら、東京の大学全部落ちて、受かってもいかないよって思った東北学院大学に、補欠合格で受かったんですよ。
第二次補欠合格です。
ギリギリのギリギリですよ。
ほんでもうそこしかなくて。
もう「ハイ」みたいな感じで、まあなんとか入学金準備してもらって、大学に入りましたよ、東北学院大学。
だから18歳まで岩手にいて、19歳の時東京にいて、歌舞伎町でバイトしながら大泉学園というところが住所だったので、学校が原宿だったから、まあそのルートをぐるぐる回ってましたよ。
大学に入るところまで来ても、格之進の創業にはまだたどり着きません。牛の仕事から離れたかった少年が、人の弱さを知りながら進んだ年月も、肉おじさんの歩みの一部です。




ハンバーグ
メンチカツ
塊焼き・塊肉(部位別指定購入可)
ステーキ・骨付き肉
焼肉
すき焼き・しゃぶしゃぶ
白金豚
その他





















